ボストンの歩き方

2016年MIT入学の学部二年の日記帳

ゲーム依存症と「狂気の歴史」

ゲーム依存症が正式に病気として認められたらしいですね。

最初は冗談かと思いましたが、実際にWHO(世界保健機関)のサイトで確認したところ今年改定されたInternational Classification of Diseases(ICD-11)に新しく病気として認定されたそうです。認定理由としてはゲーム依存によって著しく人間関係等の社交性が著しく損なわれている人が世界中で見られ、それに対する治療法が確立してきているからだとか。また、認定条件はゲームによる人間としての機能の著しい低下が12か月以上続いているということなのでゲーム大好きっこが全員当てはまるわけではなさそうです。詳しくはこちらから。

 

しかしよく考えると何が病気で何が病気じゃないかって難しいですよね。もちろんインフルエンザのようにインフルエンザウィルスが体内で異常数存在し、それによる発熱・関節痛が見られるとかならば病気と明確に分かりますが、殊精神疾患においてはグレーゾーンが存在しているように思います。どこまでがその人の性格で、どこまでが異常なのかということです。

 

精神疾患の場合、DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)という診断のバイブル的マニュアルがあります。このような分類・診断法があることによっていいことはもちろんたくさんあります。例えば似た症状に対しての普遍的な治療法の確率・資源の公平な分配・患者の行動予測・患者の行動への理解などです。しかしそれと同時にステレオタイピングや治療による人格の変化なども考えられます。

先学期とっていた教育学の授業で読んだ本にCarla ShalabyのTroublemakersがあります。これは初等教育の中で一般に平均から外れているとされる生徒がどのように公教育の中で扱われているかを4人の生徒に注目して記述しているドキュメンタリー形式の本です。この中に出てくるZoraというとても活発な女の子。とても運動が好きで他者との交流が大好きなのですが、ADHDと診断され薬をとるようになります。そして昔の活発さがなくなりおとなしくなったZoraを見ながら、私たちのZoraはどこに行ってしまったのだろうと悲しむ両親の姿で章は終わります。薬によって社会適合度があがったのが事実だとしてもそれがよいことなのか、問いかけるような内容が強く印象に残っています。

 

ここまでの内容を聞いてフーコー(Michel Foucault)を思い浮かべる人も少なくないでしょう。フーコーは20世紀を代表する哲学者で、規律訓練型権力に関する考察で知られています。それを代表するのがパノプティコンという監獄を考察した「監獄の誕生」はとくに有名でしょう。円形闘技場のように独房を配置し、その円の中心に位置する中央塔に看守を据えるという構造をとるとき、その中央塔が外から中を見れないような構造いた場合、中に本当は看守がいなくても囚人たちは看守がいる可能性をおそれて脱獄をしないというものです。この場合囚人の行動を規制しているのは看守であるはずがなく(看守が存在しなくてもこの権力は存在するため)、つまり看守の存在を内在化した囚人たち自身により自分に働きかける権力だという主張です。George Orwell1984に似た内容ですね。

話が少しそれましたが彼の別の著作に「狂気の歴史」があります。狂気という概念を歴史を追ってみていき考察するという内容ですが、そのなかで17世紀にヨーロッパで多く狂人とされた人たちがまとめて権力のなのもと精神更生施設に入れられていた事実が論じられています。そしてそれによっていかに創造性が失われたかが。当時の権力によって作られた線引きは今であれば個性と言われるものまで狂人として認定していたのです。

 

精神疾患として分類・治療することにより助かる人は大勢います。大学の友人で鬱治療を行っている人もいます。しかし、この「疾患」というカテゴリが絶対的なものではなく、あくまでその時代の主観による相対的な基準であるという見方を忘れてはいけないように思うのです。

 

ではでは、