ボストンの歩き方

2016年MIT入学の学部二年の日記帳

大学入試の女子差別について、アメリカ大学との比較の視点から

今、東京医科大入試においての女子減点が大きな問題となっているように思います。実際僕もこのニュースを聞いたときは耳を疑いました。ただ学閥主義など、昔からの慣習がまだ残っている医学の世界を鑑みたとき、そのような不正が起こってしまう土壌は確かにあるように感じてしまいます。

 

ここで一つ考えたいのが性別を入試の合否に関係させることの妥当性です。ここで日本を考える前にアメリカについて考えてみたいと思います。アメリカの大学は自分たちを作るコミュニティというものを大事にしています。試験というある意味絶対的基準での判断をする日本の大学と違い、合格基準がとても曖昧なアメリカの大学ですが、その分合格を出すことに各学校のテイストが出るのです。そしてほとんどの大学で、自分のコミュニティに求めるものとして共通している項目が多様性です。ほとんどの大学は合格者の性別や人種を公表して、それをアピールしているわけです。MITは理系重視の大学でさえ東大理系や東工大と違い男女比はほぼ1:1ですし、性的マイノリティや多人種の比率も均等になるように努力しています。もちろんこれに逆行するようなコミュニティ形成をする大学が現れても問題ないわけですが、そんなものは勝手に淘汰されていきます。総合判断という曖昧な基準に立っている分、アメリカの大学には厳しい衆人環視がなされ、独善的・差別的基準は生き残れなくなっているように思えます。

 

これに対して、日本では絶対的なテストの点数という基準が存在します。これはいわば大学が自身の作るコミュニティに対して無頓着ということのように思えます。入試を通る能力があればどんな人間でもいいといったような雰囲気を醸し出しているわけです。これも一つの哲学ですからいいとは思うのですが、この考えに則る以上絶対的基準は絶対的基準でなければなりません。

今回の不正は、日本の大学入試システムを正当化している唯一の哲学を歪曲させた卑怯なものと言わざるを得ません。これが、事前に「男子何割、女子何割に合格を出します」と言っていたなら僕は問題がなかったように感じます。もちろん、こんなことをしたら社会的にバッシングを受けたり受験者が減ったりするでしょうが、それでも貫き通したいポリシーなら大学の勝手です。それを恐れて、絶対基準であるという前提を疑う者がいないことをいいことに水面下で性差別を行っていた人たちには、医者という以前に一人の大人としての自覚が完全に失われているように思い憤りを禁じえません。

 

ではでは、